この記事は哲学・ポエムカテゴリの文章です。 記述内容を無批判に受け入れることなく、読者自身が考えるきっかけにしていただきたいと思います。
人生の目的を考える前に
はじめに僕から1つだけ質問させてください。
あなたが、人生の目的について考えようと思い立ったのはなぜですか?
大きな悩みがあったり、つらい出来事があったりすると、自分は何のために生まれてきたのだろうかと考えたくなってしまうものですよね。
もしあなたが、
「頼んでもいないのに勝手に生まれさせられて、こんなにヒドい目にあわされているのはなぜ?」
とか、
「もっと、すべてが思い通りになる人生がよかった。神様や王様かのような、自分の思うまま好きなように生きられる人生がよかった。何のために今こんな人生を生きなければいけないのか?」
とか、
「他人はみんな、仕方なく生きているだけでしょ?自分はそんな風に生きるくらいなら死んだ方がマシ。どうして人生を生きなければならないの?」
なんて風に思っているなら、
この記事を読む前に伝えたいことがあります。
それは、
「自分自身のことを好きになってほしい」
ということです。
自分のことを好きになるなんて絶対ムリ!
だなんて、どうか決めつけないでください。
自分自身のことを好きになれるときが、かならず来ます。
もし今、自分のことを好きになれないのは、過去の自分のことが気に入らないからではないでしょうか。
過去と他人は変えられませんが、未来と自分は変えられます。
今までの自分が気に入らないなら、これからの自分を好きになれるように努力すればいいのです。
人生の目的を考えるための心構え
子供から大人になる過程で、多くの人が人生の目的について考えます。
夜も眠れないほど深く考えることもあります。
考えすぎて、なぜだか無性に怖くなってしまうこともあるかもしれません。
人生の目的が何か、という問いは非常に深いので、その答えは人によって異なります。
どんな答えがあるか気になる方は、最下部の関連情報欄にキーワードを記載していますので、ぜひ調べてみてください。
多くの先人が知恵を絞って考えてきた問いなので、自分の答えを見つける際に大いに参考になると思います。
でも、誰かの答えをそっくりそのまま自分の答えにするのはオススメしません。
なぜなら、人生の目的はあなたのものだからです。
あなた自身が心の底から100%納得できるものであることが必要だからです。
例えば、人生のすべてを親の言う通りにして過ごすのは危ういかもしれません。
もし、あなた自身が100%納得できていないことを人生の目的にしてしまうと、死の間際に後悔することになるかもしれません。
人生には楽しいこと嬉しいこと辛いこと悲しいことが数えきれないほど起こります。
それらの様々な出来事を受け止めていく際に、自分の中の一番大きな支えとなるものが人生の目的でなければなりません。
さもないと、とてもつらい出来事に直面したときに、自分の人生に疑問や矛盾を感じることになってしまうでしょう。
そうなると、人生の目的を再検討する必要が出てきます。
ですが、人生の時間は有限です。
不毛な目的のために人生を棒に振ってしまい、死の間際、後悔することになっては取り返しがつきません。
ですので、あなたの人生の目的は、あなた自身でしっかりと考えて納得できる答えを見つけてほしいと思います。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、これから僕なりの人生の目的について書いていきたいと思います。
あくまでも1つの例として、参考になる部分があれば幸いです。
人生の目的
はじめに僕なりの人生の目的の答えとその意味について述べ、そのあとそう考えるに至った考察過程を述べます。
答えだけでは分かりづらいと感じる場合は、ぜひ、考察過程まで熟読していただければと思います。
では、さっそく始めていきます。
人生の目的についての僕の答え
僕にとっての人生の目的は
「ありのまま生き、日々、自身の生命を生かしている自然の真理とともにあり続けること」
です。
どういうことかと言いますと、
まずは、「ありのままの自分として生きる」ということです。
そうすると自然と、「自身の生命を生かしている自然の真理」が自分の体の中に宿っていることが日々感じられてきます。
この自然の真理という大きくて神秘的な存在とともにあり続けることこそが、僕の人生の目的だと考えています。
とはいえ、いきなりこんな言葉を並べられてもいま一つピンとこないと思いますので、もう少し詳しく説明したいと思います。
ありのまま生きることは自分を好きになること
ありのまま生きるとはどういうことでしょうか。
ありのままの生きるとは、常に素の自分をさらけ出して過ごすということです。
ずっと素の自分でいつづけるので、
いつでも、自分が好きだと思うこと/やりたいと感じることができます。
自分の得意分野で誰かの役に立ったり、
好きな人に素直に好きと言ったりできます。
でもいいことばかりではありません。
自分の未熟さを自分で認めなければなりませんし、
間違ったり恥をかいたりしても誰かのせいにできません。
自分が好きな人に好かれることができなくても、 事故や病気でつらい思いをしたとしても、 全部自分のこととして受け止める必要があります。
つらいことがあっても、「それも含めて自分なんだ」と受け止めるためには、
自分で自分を好きになることがとても大事です。
自分を好きになるといっても、ナルシストになれという訳ではありません。
単純に自分自身を無条件に肯定するのではなく、
自分の未熟な部分を未熟であると認め、成長していくことが大事です。
ありのまま生きるのは意外と大変
実際にありのまま生きるとなると、入念な準備が必要で、意外と簡単なことではありません。
こうしてスマホやPCで文章を書いたり読んだりするにも、しっかりした文章を書いたり、書かれた文章を正しく読むためには様々なことを勉強したり経験する必要があります。
またそもそも、自分自身のことをよく知らなければ、何をすることが自分らしいのかさえ分からないかもしれません。
ありのまま生きるには、しっかりとした準備が必要なことを覚えておいてください。
もしも「ありのままの自分とは何だろう?」と思うなら、それがスタートラインです。
逆説的ですが、ありのままの自分を知りたい、という気持ちこそが、ありのままの自分です。
そして、ありのままの自分を探すのには、年齢制限はありませんので、いつから始めても大丈夫です。
子どものうちから始めてもいいですし、大人になってから始めてももちろん何も問題はありません。
まずは、自分を深く見つめ、たくさん遊び、多くを学んでください。
そして、いろいろな人とさまざまな話をし、仲良くなったりケンカしたりしながら、多くの友達や仲間を作ってください。
そうやって多くの人と触れ合い経験を積んでいく中で、人の役に立ったことや、人から感謝されたことを忘れないようにしてください。
人に助けてもらったことや、誰かに感謝したことを心に留めておいてください。
そうしていると、素の自分がどんな人間なのか、少しずつ分かってくるはずです。
素の自分は何が好きで、どんなことがしたいのかが見えてくると、好きなこと/やりたいことをして生きていくために必要な準備が、より具体的にわかってくるでしょう。
そして、実際に具体的な準備をし始めることで、自分の周りの世界と上手に付き合う方法や、手の届く範囲の世界を動かす方法を学ぶでしょう。
世界の中で素の自分として生きるには、様々な衝突や障壁がかならず出てきます。
自分を理解し、世界を理解することでそれらを乗り越えていくことこそが、ありのまま生きるということなのです。
ありのままの自分に、自然の真理が宿っていることに気付く
ありのまま生き、素の自分を受け止め続ける生活をすると、自分の気持ちや考え方のおおもとに「命」という自然の真理があることに気付きます。
命について考えるきっかけは、きっとすごく些細なことです。
たとえば、
「命があるから、こんな気持ちになるんだな。 」
「命があるから、こういう考え方ができるんだな。」
という風なものです。
でも、ふとした瞬間に少し不思議な気持ちになります。
命は自分が生まれてからずっと変わらずに自分の中にあり続けている。
命は、自分の中にたしかにあって自分を生かしているのに、自分の外にある自然界とつながっているという感覚です。
全身の細胞ひとつひとつが生命のエネルギーを生み出していますが、その生命のエネルギーを生み出す仕組み自体は自然界の仕組みであるという実感です。
自分という個人の中にある命は、自分の外を覆っている自然の真理によって生かされているものなんだという感覚です。
その感覚が感じられると、自分の中にも外にも、自然の真理が一貫して存在していることに気づくでしょう。
それに気づくことで、自分は世界の中で生きていることを実感するでしょう。
自然の真理とともに生きることで、死への恐怖に立ち向かう勇気が湧いてくる
先述の通り、僕にとっての人生の目的とは、
「ありのまま生き、日々、自身の生命を生かしている自然の真理とともにあり続けること」
と書きました。
僕は、この目的を持つことで、死への恐怖に立ち向かう勇気を得ることができました。
なぜ、人生の目的を持つことで死への恐怖に立ち向かう勇気が湧いてくるのでしょうか。
それは、生まれた瞬間から死ぬ最後の一瞬まで、自分の中に自然とつながった命が宿っており、自然の真理にしたがって生きているからです。
すべての生き物にとって死は恐ろしいものです。
なぜ死が恐ろしいかというと、死ぬと自分自身の命が終わり消えるからです。
ですが、別の見方をすると、死とは自分の肉体と精神が自然に還ることだと考えることもできます。
生まれた時から死ぬまでずっと、自然の真理が命を生かしており、死ぬときに命が自然に還っていくということです。
自分の命の中にははじめから自然が宿っているのですから、
死ぬその瞬間まで、自分の命と自然の真理はともに存在しているのです。
自分と世界はつながっており、大きな宇宙に抱かれて生きているのです。
このことに気付くことこそが人生の目的です。
そうだとしたら全ての生き物は最初から人生の目的を果たしていることになるじゃないか、と思う方がいるかもしれませんが、その通りです。
そして、それでいいのです。
人生の目的は、すごろくのゴールのように、到達したらそこでおしまい、もう続きはありませんという類のものではないです。
なぜなら、達成したらそこで人生おしまい、というものでは目指す意味がありませんから。
むしろ、目的を達成したところからが本当のスタートです。
人生の目的は、宝探しの旅のようなものです。
目的の宝物を見つけたあとの方が、見つける前よりずっと輝かしい人生になるのです。
そして、僕は、すべての人やすべての生き物は、生まれた瞬間から大事な宝物を持って生まれてくるのだと信じています。
だからこそ、人生の目的は、
「ありのまま生き、日々、自身の生命を生かしている自然の真理とともにあり続けること」
だと思うのです。
なぜこう考えるに至ったか
ここから先は、このような人生の目的に気付くまでに考察した過程について述べていきたいと思います。
このような答えにたどり着いた経緯を一つひとつ述べていくため少し長くなりますが、ぜひお付き合いください。
「人生」という言葉の意味
人生の目的について考える際に、まず「人生」と「目的」という言葉の意味をしっかりと定義しておきたいと思います。
「人生」とは、生き物の一生のことです。
あえて、人に限らない意味であると考えます。
そのような意味であると考えても、「人生」という言葉に自分自身の一生が含まれることは明らかです。
同様に「人生」という言葉には、他人の一生も含まれます。
そして、動植物や微生物に至るまで、すべての生きとし生けるものの一生が含まれます。
「目的」という言葉の意味
「目的」とは、実現しようとする事柄のことです。
実現しようとする事柄は、本当に実現できることでないと意味がないことに注意してください。
実現したいけれど絶対不可能なことがわかっているものは、人生の目的としては無意味で不適格です。
最初から無理なことが無理だとわかるだけの人生では、せっかくの人生がもったいないからです。
人生の目的が何かを考える
これで、「人生」と「目的」という言葉の定義をすることができました。
人生の目的とは、「生き物の一生で実現しようとする事柄」のこととなります。
でもこのままではまだピンときませんね。
人生の目的という言葉の意味を定めただけでは、それが何であるかの答えを導き出すことは少々難しいです。
ですので、人生の目的として無意味で不適格なものを除外することで、人生の目的とは何かの答えに迫っていきたいと思います。
人生の目的は死の間際に無意味にならない
人生の目的は、死の間際になっても意味があるものでなければなりません。
分かりやすい例をあげると、お金持ちになることや出世することは人生の目的にはなりえないです。
なぜならこれらお金や地位は、「死ぬとき=自分が失われるとき」に「自分自身から分離してしまう」からです。
せっかく人生を懸けて手に入れた大事なものが、死の間際、一気に全て取り上げられてしまうなんて、そんなこと堪えられません。
ですから、人生の目的は死の間際にも意味があるものでなければなりません。
人生の目的は肉体や頭脳が衰えても無意味にならない
自分の若さや健康、知性が失われるときに自分から分離してしまうものは人生の目的にはなりえません。
たとえば、いつまでも若々しくあり続けることや、常に周りの人々より賢くあり続けることは人生の目的ではありえません。
誰しもいつか肉体も頭脳も衰えていきます。
体が動かなくなったり、知識がなくなったりすることで失われてしまうものは人生の目的たりえません。
人生の目的は生まれ方や死に方とは関係ない
人生の目的は、自分がどのように生まれたかには関係ありません。
なぜなら、自分の人生が始まる前の出来事が自分の人生の目的になることはありえないからです。
生まれた場所や国籍、人種や時代など、生まれる前に決まっていたすべての物事は人生の目的には関係しません。
また同様に、人生の目的は、自分がどのように死ぬかには関係ありません。
たとえばあなたが死ぬとき、大切な人のために死にたいと願ったとして、それは人生の目的にはなりえません。
なぜなら、自分が望む死に方を自分の人生の中で達成することは不可能だからです。
どういうことか。
仮に自分が望む死に方を実行するとしましょう。
死の直前、まだ生きているとき自分はまだ死んでいませんので望む死に方をしていません(=望む死に方をするという人生の目的を達成できていません)。
死んでしまった後には、すでに自分の人生が終わってしまっています。
結局、望む死に方をすることは自分の人生の中では絶対に達成できませんので、人生の目的にはなりえません。
人生の目的が満たすべき条件
以上のように考えてみると、人生の目的は少なくとも以下の条件を満たすべきだと言えます。
- 死ぬとき=自分が失われるとき、自分と同時に失われるものであること
- 肉体や知性が失われても達成可能なものであること。
- 生まれ方や死に方とは関係なく、自分が生まれてから死ぬまでの間に達成可能なものであること。
これらの条件を満たす人生の目的とは何でしょうか。
共通するキーワードは、「命」です。
僕は、人生の目的は、「命」の中に含まれている何かだと考えています。
つまり、自分の命の中にある何か大事なものが、人生の目的だと思うのです。
そして、命は目で見たり手で触れたりできませんので、生きている間に勝手に命が増えたり、変化したり、形を変えることがありません。
自分が生きている間、命それ自体には変化がないと考えると、
命を得た瞬間に人生の目的となるものが手に入っていると考えることができます。
命とは何か
命とは何か、という問いは現代の科学でもまだ解明されていないとても難しい問題です。
ここでは、僕なりの素朴で単純な考えを述べたいと思います。
僕は、命とはろうそくの先端で燃えている炎のようなものだと考えています。
説明のために、老衰で死ぬときの命の状態について考えてみたいと思います。
死の間際、まだ生きているときと、死んだ直後、もう動かなくなったときの違いを考えてみます。
死の前後で、肉体の物質的な違いはほとんどないでしょう。
そう考えても特に問題ないと思います。
物質としては変化がないにも関わらず、命が終わるともう動かないというのは、あたかもろうそくの炎のようです。
炎はろうが残っている限りは燃え続けますが、ろうがなくなると消えてしまいます。
命は炎のように燃えており、目には見えないろうがなくなると消えてしまうものなのだと思います。
命の中には自然の真理がある
命が炎のように燃えているものだと考えると、命の中に含まれているものについて次のような仮説を立てることができます。
その仮説とは、
「炎が燃えるために酸素と熱と燃料が必要であるように、
僕たちそれぞれの命を生かすために自然界の何らかの仕組みが働いている」
というものです。
僕にはこの仮説を検証する方法がわかりません。
ですが、実際に僕たちは世界の中で生きています。
少なくとも生きていると信じています。
ということは、命を生かすための自然界の何らかの仕組みが、僕たちの1人ひとりのすべての命に宿っていると考えることができます。
そう考えてみると、とても不思議なことに思えてきます。
自分という個人の肉体の中にある個人の命が、実は、外の世界である自然界の何らかの仕組みによって生かされているということが。
そしてこの不思議こそが、普遍的で変化しない人生の目的の答えだと、僕は思います。
つまり、自分の命を生かしている自然の仕組みとともに生きることこそが人生の目的だということです。
自分の命が大いなる自然とともにあると意識することが、自分が生きている世界について意識するきっかけとなり、その世界をより良くすることや世界の真理を明らかにする原動力になります。
そして、自分も含めたすべての生命が自然とともにあると考えることによって、他者や動物、自然に対する愛につながっていきます。